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二輪と四輪、交差する自由の先

二輪と四輪、交差する自由の先

道は続く。どこまでも。アスファルトを撫でる風の音、エンジンの唸り、それらは移動という行為を超えた、一種の“儀式”の音でもある。

彼は重厚なドアを閉め、シートに身体を預ける。スイッチを入れ、V6エンジンが低く優しく目を覚ます。鋼鉄の箱は、外界の喧騒から彼を守る堅固なシェルターだ。エアコンは快適な温度を保ち、高級スピーカーからはお気に入りのジャズが流れる。車窓を通して景色は流れ、それはまるで大きなスクリーンに映し出される映画のようだ。雨の日も、風の日も、猛暑も、この空間は変わらない。目的地への移動は、平穏で計画的な“旅”である。彼は家族や友人とこの空間を分かち合う。会話が弾み、笑い声が響く。四輪が提供するのは、共有される快適さと、守られた個人の領域という、ある種の完結した小さな宇宙なのだ。

一方、彼女は革のジャケットに身を包み、バイクに跨る。エンジンキーを回すと、そこには爆音とは違う、機械の息吹のような純粋な鼓動がある。ヘルメットのヴィザーを下ろせば、視界は前方へと集中する。発進。風が全身を打つ。それは速度ではなく、『風圧』という形で速度を肌で感じる瞬間だ。夏の太陽の灼熱も、夕暮れ時の冷たい空気も、匂いも、すべてが遮られることなく直接的に伝わってくる。アスファルトの照り返し、雨粒の痛みすらも。バイクに乗るとは、世界と“一体化”する行為に他ならない。次のコーナーへ、次の直線へ。彼女の意思が直接的に車体に伝わり、それに応えるようにバイクは傾き、駆ける。そこには自分と機械のみが存在する、孤独でいて最高に自由な“旅”がある。

二輪と四輪。この対極にあるように思える存在は、決して対立するものではない。むしろ、同じ「道を走る歓び」という根源的な欲求を、異なる形で表現しているに過ぎない。一方は世界から“守り”、他方は世界に“溶け込む”。一方は“共有”を旨とし、他方は“孤独”を慈しむ。

時に、車のドライバーが窓を開け、そよ風に吹かれながら遠くを見つめることがある。それは四輪の中にいながら、ほんの少しだけ二輪の感覚を懐かしむ瞬間かもしれない。逆に、バイクに乗る者が長い旅の終わりにホットコーヒーを手にした時、ふと車の温もりある空間を思い浮かべることもあるだろう。

それぞれの良さを知る者こそが、真の“道の自由人”と言えるのではないだろうか。選択するのは、その日の気分と、求める自由の形。さあ、今日はどちらの自由を選ぼうか。エンジンは、いつでも始動を待っている。